川上未映子さんの小説にとって身体性はあまり重要なファクターではないという話

この記事のタイトルは、まったく個人的な意見なんだけど、って言うのは川上未映子さん自身の
対談集「六つの星座」って言う本がどうも川上未映子さんの小説と身体性というテーマで
書かれていて、本人もそのテーマで話をしているので。身体性っていうのはカラダの
パーツの話。例えば、未映子さんの小説に出てくる乳とか卵とかそういうヤツのことね。


でも、自分的にはどうもこの対談集で設定されたテーマに興味がわかず違和感があるので、
何でかなって考えた時に、未映子サンの作品に出てくるカラダが、いわゆる女性のカラダとして
描かれていないで、カラダの持つ哲学的な意味の象徴というか、なんていうかイコンのような
意味あいで出てくるので、それはもうカラダではなくって人の存在する意味の延長にあるような
哲学的なテーマであるからして、カラダっていうのを超越したことを書いているのだよと言って
みても、本人が対談しているのだから、まあ、個人的な思い込みであって、そうでもないんだろう
なとか、思ったりして。


この対談集、多分、賞をとった後に川上さんが影響を受けた作家さんとか知識人の人たちと話し
てるんだろうけど、対談相手が先輩のような人たちばっかりで、対談をしていても上下関係が
目につくなあ、あと、川上さんの作品なんかの分析とかしていて、題材がちょっと。


対談相手と今の世界とか少なくとも本人以外の小説とか映画とかそういうのを話して欲しいなあ
って思う。あと、川上さんが影響を受けた人たちのはずなのに、対談相手がなぜか自分の興味を
惹く人がすくないのも何故なんだろう、川上未映子さんの作品にだけ興味が向くのかうまく説明
できないなあ。


できれば、自分と同じような意見の人がいたら、理由を解説してほしいなあ。


まあ、そんなとこ。